奥野 光賢(仏教学部仏教学科)
「学徒出陣八十年」

大发888体育_dafa888唯一登录网站-【官方认证】5年度第1回祝祷音楽法要文化講演
(2023年4月14日)

*本稿は、2023年4月14日金曜日に駒澤大学仏教行事運営委員会主催の大发888体育_dafa888唯一登录网站-【官方认证】5年度第1回祝祷音楽法要文化講演会で「学徒出陣八十年」と題して発表した資料を基にまとめたものである。演題を「学徒出陣八十年」としたのは、昨年(2023年)が「学徒出陣」から八十周年にあたっていたからである。今回は与えられた紙数に限りがあり、十分に論述することができなかったので同名の別稿を用意する予定である。詳しくはそちらも参照いただければ幸いである(「学徒出陣八十年」『駒澤大学仏教学部研究紀要』第83号、2025年3月に掲載予定)。

(1)

「学徒出陣」という言葉をどのように定義するかについては議論があるが、ここではひとまず1943年10月2日「在学徴集延期臨時特例」に関する勅令が公布され、法文科系の大学や専門学校などの学生?生徒を中心に徴兵猶予が取り消され、学籍を持ったまま戦陣に赴いたこととしておきたい。そして「学徒出陣」を強く印象づけたのが1943年(昭和18年)10月21日、文部省?学校報国団本部主催で開催された明治神宮外苑競技場での「出陣学徒壮行会」であった。この「出陣学徒壮行会」には東京、神奈川、千葉、埼玉の大学、高等師範学校等77校が参加し、96校の学徒(女子学生を含む)が見送ったとされている(出陣学徒、見送った学徒の数は資料により一定していない)。

「出陣学徒壮行会」は明治神宮外苑のそればかりではなく、全国各地で開催されたほか、各大学でも個別に行われた。ちなみに本学の「出陣学徒壮行会」は、第61回開校記念日にあたる同年10月15日に行われ、山上曹源学長のほか、教職員を代表して衛藤即應教授が壮行の辞を述べ、平孝純氏の送辞、上田祖峯氏(元駒沢女子大学学長)の決意の答辞と続いたことが記録されている。また、この壮行会においては荒木貞夫陸軍大将による講演も行われた。

(2)

さて、私事にわたって恐縮であるが、私の師父である奥野泰弘(1922-2002)は当時文学部仏教学科に在学中で、雨のなか銃剣を担って明治神宮外苑競技場を行進し、同年12月8日には横須賀第2海兵団(のちに武山海兵団と改称)に入団し、敗戦に至るまで帝国海軍の一員として軍隊生活を送った。仏教を学ぶ師父らがどんな思いで戦陣に赴いたのか、いまとなっては知る術もないが、ちょっと考えると背筋が寒くなる思いがする。

師父は軍隊生活の具体的な事柄について多くを語らなかったが、死ぬまで帝国海軍の軍籍にあったことに後悔の念はなかったようで、むしろ誇りにしたように思われる。師父は宗門外の一般の会合や会食はあまり好まなかったが、海軍予備学生関係の行事には都合をつけて可能な限り出席していた。それは多感な青春の一時期を文字通り死と隣り合わせで生活を共にした同士、戦友の集まりであったからであろうか。

正確なことはもう憶えていないが、私が大学院博士課程に在籍中であった頃であろうか、師父が当時の院生会の名簿か何かを見ていたとき、「ほぉ~、伊那の常圓寺さんのご子息が在籍しているんだねぇ~。常圓寺の角田文雄君は同級生でとても優秀だったが惜しいことに戦死した。確か立花俊道先生についてパーリ語を勉強していたはずだ」と語ったことがあった。ここに言う「常圓寺さんのご子息」とは仏教学部の角田泰隆先生ことであるが、正直のところ院生時代は研究分野が違うということもあって、私は角田先生とはほとんど交流はなかった。しかし、短大仏教科奉職以後は研究室が隣ということもあって親しくさせていただいていることはみなさんご承知の通りである。それはともかく、師父もそして角田文雄氏(角田先生のお父様の兄上にあたる)もともに銃剣を担って雨の神宮外苑教場を行進して入営し、戦陣に赴いていたことに不思議な「縁」を感じずにはいられない。

(3)

以後、しばらくの間、角田文雄氏のことは忘却の彼方にあったが、意外なところで私は再び角田文雄氏と出会うことになる。それは鶴見俊輔氏の「政治学を見返す証言」(1987年7月27日、朝日新聞、朝刊)中でたまたま知ることを得た阿利莫二氏(元法政大学総長)の『ルソン戦―死の谷』(岩波新書No.378、1987年)においてであった。

阿利書を読み進めるとそこには「角田文雄は僧籍をもつ豊橋砲兵生徒隊の一員、信州伊那の名刹の後継者」(同書、p.130)とあり、続く「一握りの米」と題する項には次のように記されていたのである。

 南国の夜空は美しい。空が果てしない深みでひろがり、星がすき間なくその空を埋め、銀砂のように輝く。流星が絶え間なくとび交い、皓々たる月も、その星影を消すことはできない。星空は無限。その神秘の世界に、いつしか心はひきこまれる。北方転身中も、小休止で背嚢ごとひっくり返れば、自ずと月を仰ぎ見る。冷たく、明るく輝く月をじっと見つめていると、いつしか心は戦場を離れ、故郷に通う。月は故郷に想いを通わせる唯一の鏡だった。
 角田は、故郷を語り時には宗教や、哲学の談義にも入る。一期一会、この谷間で己れの精神を蘇らせ人間をとり戻すことができたとするならば、それは角田と芋のおかげである。
 終戦後、谷を出るすこし前のこと、
 「ちょっとこいよ」
 上からの声。上に上がると、角田は、身のまわりを片づけながら、雑嚢から何かをとり出した。
 「最後にと思って残しておいたのだが、もういいだろう。一緒に食べよう」
 一握りの米である。驚きもさることながら、胸がつまる。極限状況の世界にも、己れとは違うこういう人もいたのである。しかし彼は今もなおルソンの山中に眠っている。(同書p131–132)

文中の記述からもわかるように、これは終戦後なおルソンの谷を彷徨しなければならなかった様子を記録したものであるが、阿利氏の見事な文章によって綴られる角田文雄氏の最後を私は涙なくして読めなかった。阿利氏は帰国後、「角田氏の最後を知っているのは小生一人になってしまった」(常圓寺編『鎮魂の手記』ほおずき書籍、1995年。p130)という責任感から伊那のご両親(角田先生の祖父母様)に角田氏の最後を報告することになるのだが阿利氏の友情にも胸詰まるものがある。

私は極限状況にあっても人間性を失わなかった角田文雄氏のような本学出身の立派な先輩がいたことを知り、誇りに思うとともに、学徒に限らず豊かな才能を持ちながら戦陣に散らなければならなかった多くの若者がいたことにただただうなだれるばかりである。「学徒出陣」から80年を迎えた今日、忌まわしい戦争を二度と繰り返さないよう、そして再び若人を戦陣に送ることがないように、しっかりと過去を振り返ることが大切ではないかと思う。十分に論述することができず、理解しにくいところがあると思われるのでそれらは別稿にて補うこととしたい。

(2024年8月30日)

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