櫻井 陽子(文学部国文学科)
「『平家物語』が描く罪と救済」

大发888体育_dafa888唯一登录网站-【官方认证】5年度第4回祝祷音楽法要文化講演
(2023年10月13日)

*当日の講演の内容をもとに再度考察を加えて、「駒澤国文」61号(2024年2月)に、「『平家物語』巻十「千手前」の成り立ち―『吾妻鏡』を窓として」を載せた。従って、重なる部分が多くなるが、その点はご容赦いただきたい。


『平家物語』は、平安時代末期に活躍した平清盛を中心とした平家一門の興亡を描いた物語である。実際に起きた大事件を素材としていることから、史実そのままに書いた作品と思われがちであるが、あくまでも史実を題材にした壮大なる歴史ドラマである。『平家物語』が物語として出来上がる過程の物語化や虚構化の経緯を解明することは、『平家物語』が訴える世界を探る営為でもある。

『平家物語』の成立した中世という時代は、人々が死と向き合い、生きることの虚しさと意味を見つめ、死後の世界の苦しみからの救いを求めていた時代である。時代の思いは『平家物語』にも流れている。登場人物の一人である平重衡もその問題を背負う。

重衡は清盛と時子の間に生まれた。清盛亡き後の一門を率いた宗盛の弟である。姉徳子は高倉天皇の后となり、次代の天皇(安徳)を生む。期待を集めた貴公子であったが、『平家物語』では、治承4年(1180)12月に、反抗する興福寺などの僧兵を制圧するために総大将として出陣し、南都(奈良)を炎上させたことがクローズアップされる。元暦元年(1184)2月の一ノ谷の合戦で生き残ってしまい、捕虜となって、改めて罪と向き合うのである。『平家物語』は、重衡が犯した大罪を認め、それでもなお、救済の道が可能かを問う。

合戦の5日後、都に戻った時から重衡の物語が始まる。重衡は、改めて自分の犯した罪の大きさにおののくが、出家の希望も聞き入れられない。ただ、法然との対面だけが許される。重衡は法然に自身の犯した罪の大きさと悔恨、総大将としての責任を語るが、少しでも救われる道はないかとも問う。法然は、阿弥陀の名号を唱えるようにと諭す(巻十「戒文」)。3月には鎌倉に護送され、頼朝と対面する。その夜、宴が催される。頼朝の要請により、重衡を慰めるために、千手という女性が招かれて酒宴を開き、重衡と千手は音楽を楽しむ(巻十「千手前」)。翌年3月、平家一門が壇の浦で滅亡。6月に重衡は南都に送られ、そこで処刑される(巻十一「重衡被斬」)。

「千手前」の章段には優雅さや風流さが溢れ、己の罪と向き合う重衡の物語の中では、いささか特異な趣がある。しかし、「千手前」の章段を分析していくと、重衡救済の糸口となっていることがわかる。

講演では、その内容について述べた。詳細は拙稿に譲るが、この章段の意義を解く鍵が、実は『吾妻鏡』(鎌倉幕府編纂の歴史書)にある。『平家物語』と同じ内容が『吾妻鏡』にも記されており、共通した資料に依拠していると推定できる。しかも、『吾妻鏡』はより簡略であり、『平家物語』には不自然な設定も見られ、『吾妻鏡』の方に依拠資料の面影を見いだすことができる。よって、『吾妻鏡』と比較することによって、『平家物語』の意匠が浮かび上がる。

『吾妻鏡』の千手前は琵琶を演奏するだけだが、『平家物語』の千手は、まず朗詠の一節を歌う。そして、この朗詠をする人は天神の加護に与れると重衡を誘うが、重衡は、死を間近にする自分には加護など不要と、頑なに拒絶する。しかし、心が少し動いたのか、「罪障かろみぬべき事ならばしたがふべし(自身の罪が軽くなるならば、千手前に従おう)」と言う。千手前は続いて、「十悪といへども(たとえ十悪を犯した者でも阿弥陀仏は極楽浄土に引き取って下さる)」と朗詠を歌う。更に「極楽ねがはん人はみな、弥陀の名号唱ふべし」と続ける。

ここに掲げた重衡の言葉、千手の朗詠は『吾妻鏡』にはなく、『平家物語』が加えたものである。しかも、これらは、重衡が京で法然と対面した時(「戒文」)に、法然が語った言葉の反復となっている。「戒文」の法然の言葉には経文が自在に引用され、緊張感に溢れるが生硬である。それに対して「千手前」の章段は、音楽に彩られて柔らかい。法然の男声と千手前の女声とが対になっている。つまり、『平家物語』は、重衡に語った法然の説経と重衡救済の可能性を柔らかく説き直すために、「千手前」の章段に芸能によそえて千手の声を加えたと考えられる。

重衡は、南都を炎上させ、大仏の首を落とし、多くの人々を殺した戦いの指揮を執った仏敵である。『平家物語』は重衡の行為を繰り返して記し、しかも、そのような大悪人さえ救われる道を提示しようとする。

重衡ほどの罪を犯す人間は、そうそういないであろう。しかし大なり小なり、罪を犯さないで一生を終えることのできる人間はいない。しかも、『平家物語』諸本の中には、重衡は己の意志ではなく、命令に従ったまでとの告白が繰り返されるものもある。こうした立場に立たされて悪行を犯す人間は希有な存在なのだろうか。確かに、重衡の行ったことは仏敵とされてしかるべきものである。が、実行責任は己にあるとの自覚も持つ重衡の煩悶は、彼特有のものだろうか。凡愚なる我々には無関係な煩悶であろうか。

『平家物語』は、人間の様々な局面を見つめ、否定することなく、包み込もうとする。

大发888体育_dafa888唯一登录网站-【官方认证】