村山 元理(経営学部経営学科)
「高尾山仏舎利奉安塔と中島久万吉ー財界人の仏心」
大发888体育_dafa888唯一登录网站-【官方认证】4年度第3回祝祷音楽法要文化講演
(2022年6月15日)
本報告は筆者の博士論文をもとにして駒澤大学出版助成(大发888体育_dafa888唯一登录网站-【官方认证】4年度)を受けた『中島久万吉-高僧といわれた財界世話役の研究』(文眞堂、2023年)の一部を紹介するものである。
0. 中島久万吉とは誰か
中島久万吉[1873-1960]は現在ではほとんど忘却されているが、戦前の男爵?貴族院議員である。日本工業倶楽部の設立に関わり主に財界人として活躍した人である。父は初代衆議院議長の中島信行であり、継母は女流民権家としても著名な文学者の岸田俊子であった。中島は明治学院を中退し、高等商業学校を明治30年卒。東京株式取引所、三井物産、京釜鉄道路線委員を経て、内閣秘書官(桂太郎?西園寺公望)として国政にも関与した。その後、出資社員として古河興業に入社し、古河財閥の多角化に尽力した。大正時代には日本工業倶楽部専務理事となり、昭和初年には産業合理局常任顧問として経済界で全国的に知られた存在となる。1932年に斎藤実内閣で商工大臣となるも1934年、足利尊氏事件で失脚し、さらに帝人事件の被告人となってその人生は突き落とされてしまった。それ以降、彼は表舞台から姿を消してしまった。戦後、日本貿易会の初代会長としてGHQを相手に戦後の経済復興に貢献した。すでに70代を超えた老人でありながら、活躍の舞台はさらに青年団運動に移行したことなどを明らかにした。
1. 幻の仏舎利塔建設 昭和15(1940)年
大澤広嗣(2019)によれば、1940年に予定されていた東京オリンピックや万国博覧会に合わせて、仏舎利塔の建設計画が近代仏教史的には注目されたが、これは実現できなかった。この仏舎利は震災記念堂(現在の東京都慰霊堂)に安置されていた。中島が商工大臣だった時にその管理を任され、震災記念堂に仮安置していた。
2. 財団法人東京仏舎利奉安会の会長
中島は、有志らとともに1953年に財団法人東京仏舎利奉安会を設立させた〔写真(昭和28年7月)〕。そして財界から資金を勧請して、仏舎利建設に関わった。彼の手帳に16社の「結縁勧誘先」が記載されていた。古河電工、横浜ゴムなどである。
1956年11月18日に高尾山で仏舎利塔の落慶奉遷式が挙行された。その寒い中で中島は「参加してすっかり風邪をひき、入院した。腰に力が入らなくなり、弱りました。」と証言している。

2-1. 高尾山仏舎利塔の裏面に刻印された由来書
垂れ給ひてより法輪を五大に轉じ歸依随喜の徒五族に及
び佛徳炳焉として衆庶を光被たり真に敬仰に堪へず
謹みて經典を按ずるに釋尊の滅後その真身舎利は八国に
奉祀せられしことを傅うれども真蹟杳として不明なりき
然るに偶一八九八年北印度バスチ州ビウラーフの遺蹟に
於て嘗て釋迦族の奉祀せる真身舎利寳龕を發見し世界の
佛教徒を驚喜せしめたり印度政廳はこの佛舎利を擧げて
佛敎國泰王室に贈献せり泰國は又之を頒ちてビルマ及び
セイロン兩国に贈ると共に明治三十二年我國にも分贈せ
られたり現に名古屋市覺王山日泰寺に奉安する佛舎利は
即ち是なり
次で昭和六年春少年團日本連盟代表招聘せられて泰國を
訪問の砌王立大寺院ナコムパトム寺に正式參拝し國王の
特旨により日泰親善の印として佛舎利數顆を贈與せられ
恭しく奉戴歸国したり仍て之を東京市に托し假に東京都
慰霊堂に奉安せられしより既に二十餘年を經たり
今般本會發願する所あり新たに地を都下随一の幽境高尾
山上に卜し塔を建立荘厳して奉遷し永く佛徳讃仰の殿堂
たらしめ佛陀の精神を以て混濁せる社會人心を敎益し世
界人類の平和親善に資せんことを期す乃ち浄財を篤志に
仰ぎ工を起し白亜の寳塔今や完成せり茲に佛紀二千五百
年の嘉辰に當り恭しく落慶奉遷の法儀を行う寔に欣快に
堪へず謹みて由來を記し後世に傳う
With the many whose earnest desire it is to contribute through the Buddhist
Spirit to the peace and happiness of mankind. Erected this monument for
The genuine relics of the great Lord Buddha received through the Boy
Scouts Federation of Japan from His Majesty the King of Thailand
In the year 1932.
Buddha September 19, 1956.
The Two Thousand Five Hundred Year after the
Entrance of the Lord Buddha into Nirvana.
3. 禅宗からの学び?参禅生活
中島の禅趣味は、円覚寺管長の釈宗演禅師[1860-1919]との交流によるもので、谷中墓地にある中嶋家の墓碑銘も釈宗演の書である。中島は帝人事件の公判前から結審(昭和9-12年)に至るまで、円覚寺松嶺院の参籠に前後3,4年をかけた。被告人であるときに、自ら禅修行に励んだのであった。その時、『碧眼集』だけでなく、大乗仏典の精髄である『金剛経』?『信心経』?『般若心経』などの教典の「疏釈」に「三ヵ年有余」をかけた。
自宅のあった牛込区薬王寺町には月桂寺(円覚寺派)があり、東海裕山老師と懇意にしていた。また、永平寺は1924年10月31日に参詣しており、道元禅師をもっとも尊敬していた。さらに1928年頃に、日本橋倶楽部で秋野孝道禅師から正法眼蔵を学んでいた。以下のその時の秋野孝道禅師について中島は以下のように書いている。
「私が正法眼蔵に接し、親しく拝読できるようになったのは、秋野孝道禅師の啓蒙によってである。『正法眼蔵』も今でこそ、橋田邦彦博士の『釈意』や和辻博士の紹介、更には文庫本による普及で世間的なものになっているが、私達には高く遠い光のようなものであった。私は、禅話会のお世話で開かれる、日本クラブでの会に出席した。会員はわずか五人であったが、秋野禅師は実に根気よく続けられ、月に二、三回ずつ三年もの間(そして遂に病にたおられたが)、身近に拝聴することができた。禅師は西有禅師の直門として丘禅師と隻唱される碩学の人でもあったが、その蔵される禅風には自ら禅師の風格に溢れ、『啓迪』を通しての提唱と共に、私にはしみじみと流れ入るように感じられた。」
4. 世界仏心連盟
1956年2月に中島は、日本青年連盟理事の熊谷辰治郎や木村尚一だけでなく、宮本正尊、佐々木泰翁、増谷文雄、山田霊林(曹洞宗管長)、那須正隆、増永霊鳳(駒澤大学教授)らと世界仏心連盟の結成につき懇談した。5月12日にも世界仏心連盟の性格?事業につき小野清一郎博士、宮本正尊博士その他と懇談した。
この世界仏心連盟について「現代文明救済の悲願のもとに、「弘く仏心普及の運動に挺身しようと思う」と述べた。仏舎利塔に合わせた「仏教青年会」がこの団体の元々の目的であったと思われる。「カントの至上力こそは仏心であり、わが連盟の期するところは、仏心を通じて、わが国人、殊に明日の支配者たる青年層に、確固たる精神的定軌を育成しようとする。」と述べてもいる。
世界仏心連盟発行(日本工業倶楽部内)のパンフレットとして、『碧巌録と道元禅師』(1956年11月、駒澤大学図書館所蔵)、『世界仏心連盟』、『人間生活の行き詰りと新意義』、『宗教々育の振興』、『社会革命時代』の5点が刊行された。
『世界仏心連盟』についてはいまだ発見できておらず、中島が死亡するとともに消えた幻の団体である。ただ彼の仏心には啓典宗教の超越神も包含された普遍的な神観念が込められていたようである。