豊田 千代子(総合教育研究部教職課程部門)
「生の豊かさと自然―五味美那子『草花が友だちだった』から」
大发888体育_dafa888唯一登录网站-【官方认证】6年度第2回祝祷音楽法要文化講演
(2024年5月15日)
本日は、『草花が友だちだった』という本を取り上げ、「生の豊かさと自然」というテーマでお話しさせていただきたいと思います。今日、私たちは、情報が溢れる社会の中で、個を強めながら暮らしています。他者や自然や自分自身との繋がりが希薄となり、生きにくさを抱えながら生活しているように思われます。こうした現代社会において、この本は、私たちが豊かに生きるための示唆を与えてくれるのではないかと考えます。特に、生の豊かさと自然とは深い関係があることを教えてくれているように思われます。
この本は、著者である五味美那子さんが、子どもの頃に過ごした群馬県の榛名山二ヶ嶽の麓での暮らしを綴っており、八広社から1988年に出版されています。著者が子どもの頃に戻って自分のことを「美いちゃん」と書いている点に特徴があります。
美那子さんは、大正9年12月に東京で生まれ、4歳の時に、日本画家の父に連れられて、家族で榛名山の二ヶ嶽山麓のたった一軒の家に移り住みました。その後、18歳までこの地で暮らしたのですが、この間には、美那子さんが5歳の時に、母が山を去っていくといった出来事もありました。美那子さんは、小学校に行っていません。家庭で父による深い教育を受けて伸び伸びと自由に育ったのです。
それでは、この榛名の山での暮らしはどのようなものだったのでしょうか。美那子さんは次のように記しています。
家のまわりには、高山植物のやなぎらんをはじめ、いちやく草、おおばこ、山百合、赤のまんま、いたどり、ぎぼうし、のこんぎく……、雑草、薬草いろとりどりにおい繁り、美いちゃんたちは四季おりおりのそれらの草や花を友とし、また心身の糧ともして生い立ってきた。
鳥とともにうたい花と笑い、小鳥に励まされ花に訴え、空を仰いで希望に燃え、地にぬかずいて心なごみ、雨と泣き、風とともに走る。
病いの時は草を煎じて癒え、よろこびの時には花を連ねて首飾りを作り、頭に戴いて冠とした。寒さには落葉松(からまつ)の枯れ枝を集めてきて温まり、淋しい時には山に向かって呼びかけて山彦の答えを聞いた。
縁側の下に箱がおいてあり、これも家族の一員である兎の家。【夏 おおばこ】92–93頁
榛名の自然は、美那子さんの暮らしそのものだったと言えるのではないでしょうか。この文章からは、美那子さんが榛名の自然と一体化して暮らしていたことが窺えます。
こうした世界の様子は本書のあちこちに見られますが、それらの記述の特徴を四つほど取り出してみましょう。
まず1点目として、美那子さんは自然を主体として捉えています。したがって、美那子さんの文章には自然が主語であったり、人と同じように自然が描かれているという特徴が見られます。
雪が消えると、去年落ち積り、かたく凍てついていた枯葉たちは、やさしい春の気配に少しずつ目を覚ましてゆく。
枯葉の中に伏して顔を埋め大地にじっと耳をそばだてると、かすかな音をさせながら、落葉が、大地が、春の近づいたことを話し合っているのが聞こえる。大地はシミッ、シミッと小さい音をかなでながら解けてゆき、小さくかたくなにちぢかんでいた枯葉たちは、カサコソとささやきながらふくらんでゆく。
そのぬくとさを抱きこんでやがて大地の中に届いてゆき、花々が目を開く。【春 すみれ】36頁
2点目に、美那子さんの文章から、人と自然との距離が近いことが窺えます。(弟 徹也さんと父を迎えに出た折のことです。)
夕暮れて藤の花がほの白くかすむ頃、「父ーちゃぁーん」「オーオーイ」とかわり番こに呼んでみる。どこかで夜鷹(よたか)が鳴いている。「はぁーい」「てえっちゃぁーん」。
遠く父ちゃんの声がひびく。二人はとび上がって石ころだらけの坂道を走り出す。【夏 藤】100頁
3点目に、美那子さんが、自然のめぐりと人のめぐりを同じものとして捉えていることが見て取れます。
季節のめぐり来るごとに、あの静寂な山間(やまあい)に今でもやまがくの花は開き、そして人に知られず枯れていくのであろう。榛名の山を恋い、亡き父を慕い、やまがくの花を想う.........。【夏 がくあじさい】111頁
4点目に、美那子さんの文章には、自然の中に自分の心を重ねて見ているものも見受けられます。
大きな三枚の葉に囲まれてその中に小さく一輪だけ花を咲かせるえんれい草を見る時、それは静かにさみしく在(あ)る時の美いちゃんと同じ想いの花のように思えた。この草にいろいろのことを話しかけた。母のない淋しさも、徹ちゃんが転んでガラスのかけらで足を切ったことも、保ちゃんの金太郎腹掛けのひもが切れたのでノリでつけたらすぐとれてしまったことなどまでも……。【夏 延齢草】108–109頁
さて、今まで述べてきたことをもとに、本日のテーマである「生の豊かさと自然」について何が言えるでしょうか。
まず、豊かに生きるためには「出会う」ということが不可欠で、他者や自然や自分自身と出会うことは、豊かに生きるための鍵になると考えます。榛名の山の四季おりおりの「草や花を友とし、また心身の糧ともして生い立ってきた」美那子さんが味わったに違いない生の充足感は、「美那子さんと自然との一体化」、すなわち「自然と出会う」という体験によってもたらされたものであると思われるからです。
美那子さんは、「自分と自然は同じ」であると思っていました。そのため、自然を主体として捉えていることも、人と自然との距離が近いことも、自然のめぐりと人のめぐりを同じものとして捉えていることも、自然の中に自分の心を重ねて見ていることも、自然と一体化して生きてきた美那子さんのリアルな世界の表れなのです。
「自然と出会う」ことは、生の充足感をもたらすだけでなく、それによって私たちの中に育っていくものもあると思われます。
その一つは、感受性の豊かさではないかと考えます。自然に対する感受性はもちろんですが、生命全体に対する感受性が鋭敏になるのではないかと考えます。二つ目は、自然に対する信頼感と同時に世界に対する信頼感ではないかと考えます。そして、世界への信頼感は、自分を受容していく生き方を育むように思われます。そしてそれは、いわば生きることの基盤として、生涯にわたって人の生の支えとなるものでしょう。
そして最後に、自然と出会うために、子ども達はもちろん私たちも、美那子さんのように自然をたっぷり味わう体験をすること、そして、シンプルに生きることが大事なことのように思われます。そのようにして自然と人が一体となり真に共存できれば、人や自然を含めた生命世界全体の豊かさがもたらされるに違いありません。
※講演の内容は、拙稿「人と自然について―五味美那子『草花が友だちだった』から―」に基づくものです(『駒澤大学教育学研究論集』第39号、2024年1月)。